初夏、うす紫の藤の老樹を真上にいただく鳥居をくぐり、白藤の花房を横目に石段をのぼると、本殿左後に、本居宣長の曾孫・本居豊穎(もとおりとよかい)の筆になる万葉仮名で刻まれた歌碑があります。
また題字は巌谷修(貴族院議員)の筆による隷書で「大伴家持卿歌碑」と書かれています。
なお、佐阿弥安清(さあみやすきよ)によってつくられたといわれる幻想的な謡曲「藤」は、この田子の藤が主題となっていることは、よく知られています。
【意味】
藤の花が美しく咲き、影がうつる湖の底までも清く澄んでいるので、水の底に沈んでいる石でさえも珠かと見誤るほどだ。
天平のロマンをしのぶ《氷見の万葉歌碑等》
天平18年(746)から天平勝宝3年(751)までの5年間、越中国守として赴任した大伴家持は当時29歳から34歳の青年期。
その在任中に、数々の歌を詠んでおり、万葉集収録の4516首のうち約480首が家持の歌とされていますが、そのうちの224首が越中時代に詠まれた歌です。
また家持と家持をめぐる人々が越中をテーマとして詠んだ歌は95首ありますが、このうち氷見の地名にかかわる歌は32首にのぼります。
なかでも国府から近い「布勢の水海」や、英遠の浦、比美の江、多胡の浦、松田江の長浜などの美しい景観は、ことのほか気にいったようで、氷見の歌枕(歌に詠まれた名所)の多さが、それを物語っています。
現在、氷見市の各地には、その名残として18の"万葉関係碑"が建てられており、万葉の心を今に伝えています。